2026年8月28日(金)
夢のような感覚はこれからも繰り返し訪れるのだろうか。
日本に来てからこの一年、夢か現かと思うような光景をいくつも目にしてきた。こうした「夢」は、決して大げさなものではない。ただ、日常の中で偶然感じ取った、ほんの小さな一瞬にすぎない。
初めて近所の銭湯を訪れたとき、昭和の面影が感じられた。古びた店の入り口から、淡い黄色の灯りが漏れ、夜の静けさをそっと照らしていた。時折、涼しい風が吹き抜け、初秋とはいえ、暑さを感じさせなかった。湯船に浸かってみると、意外にもかなり熱かった。湯から上がり、扇風機の風に当たって、火照った身体から少しずつ熱が引いていく。その時間が、妙に心地よかった。
けれど、夢のような瞬間は、そこではなかった。
銭湯を出ようとしたとき、入り口のそばに、一人のおじさんが立っていた。風呂上がりの首にはタオルをかけ、片手には缶ビール、もう片方の手にはタバコ。その姿を見た瞬間、ふと、何十年も前の日本に戻ってきたような気がした。
白浜から串本へ向かう電車は、ひたすら森の中を走っていく。窓の外には、時折、海岸線が現れては流れていく。駅を重ねるごとに、駅舎は少しずつ小さくなり、古くなり、素朴になっていった。車内では、一人のおじさんが駅弁を食べていた。駅に停まるたびに窓を開け、その駅のホームを写真に撮っている。そして、学校帰りの学生たち。中には、学校から自分の暮らす町へ帰るだけで、何十分も電車に揺られる子もいるのだろう。多分、町で暮らす若者たちにとって、そこにあるのは、すでに見慣れてしまったものばかりだ。一つのスーパー、一つのドラッグストア、一つのカラオケといった、何度も、何度も通ううちに……
台風の日、京都から大阪へ戻る電車の中には、焦燥と沈黙が漂っていた。誰もが発車を待っているのに、ドアはいつまでも開いたままだった。次々と乗り込んでくる人がいる一方で、待ちきれずに電車を降りていく人もいた。
七夕祭りの日、日本語教室のみんなと隆勢会の人たちと一緒に踊った。舞台裏からその光景を見ていると、いつの間にか、まるで時間が止まってしまったかのようだった。
週末の仕事で天満祭の花火を見逃した。それでも、深夜の大阪駅には、駅員たちがまだ、残っていた人々を誘導していた。
夜、走っている途中、ふと周りの街並みに見覚えがあることに気づいた。
こうした夢のような断片が増えていくにつれて、知らず知らずのうちに、日本での暮らしにも馴染んでいた。
「旅することは生きること」とアンデルセンは言った。多分、生きることもまた、旅をするように生きていけばいいのかもしれない。
(4班 Oさん)