中国に来るまでは、特別意識したわけではないが、私の頭の中には日本人と中国人という分類があったように思う。
中国人とは、言葉も文化も異なる、まさに外国の人々であったわけだ。
ある面ではむろんその通りである。世界はみな兄弟なんて言うつもりはない。違いを意識することは大切であると思っている。
しかし、こうやって1年あまり中国で暮らしていると、言葉は通じなくとも表情や仕草で伝わって来るものがある。快活であったり、人見知りであったり、面倒見がよかったり、、、この人いい人だなぁと思える。
それに先に書いた分類もおよそあてにならないことも分かった。
中国人は声が大きいとよく聞く。確かにそうかもしれない。
しかし、中国の学生と評判のお店に食べに行ったとき、物珍しさにはしゃぐ私に、いくらか閉口したように「先生、声が大きい。目立ちすぎる。恥ずかしい」と言われ苦笑したこともあった。確かに私は声が大きいようであるが、、、
さくらんぼをそのまま食べて「先生、洗ってください’」と注意されたこともあったけ。
中国人と日本人、マスで見ると、傾向はあるかもしれない。しかし、中国人もいろいろだし、日本人もいろいろなのだ。極めて当たり前のことなのだが、どうも、括りたがる傾向が日本人にはあるのではないだろうか。
中国で言葉は通じなくとも、意気投合できる(通訳を通してではあるが)人もいれば、日本人でも意思疎通が難しい人もいる。結局、何人(なにじん)情報ってのはまったくあてにならないということなのだろう。
いつものようにすっかり前書きが長くなってしまったが、今年の夏、富山に留学している中国の学生を訪れた。偶然、先生にもお目にかかり、学生が書いた作文を見せてもらった。富山の先生は、WEB版冊子をわざわざ送ってくださった。
そこには、人と人の繋がりが書かれていた。国境を越え、言葉の壁を越え、人と人は難なくつながることができる。私は中国に来て心底そのことを実感している。